分岐点商用で東北の或る小都市を訪れた帰りの出来事であった。列車の時間に余裕が出来たので、私は駅前の商店街をぶらつくことにした。お目当ては骨董品店である。地方に出掛ける楽しみの一つが、東京にいてはなかなか見つけることの出来ない埋もれているお宝に巡り会うことである。 お目当ての店は賑やかで派出やかなアーケイドの端のほうでひっそりと営業していた。ここもまた、そうなのだが、この類の店は目立たないのが似合っている。私は表のショーウインドウに並んだ古美術を一通り見定めると、アンティークな飾り絵の描かれたガラス戸を開けて中に入る。香の香りがぷーんと鼻をつく。骨董好きにとって何とも言えない一瞬である。 ショーウインドウや目立つところに置いてあるようなものは一般受けのするようなものが多い。一応審美眼には年季をかけてきたつもりであるから、ひっそりと何気なく置いてあるようなものが気になる。この時も仕入れたばかりで、まだ鑑定も済んでいないように積まれていた古いメトロノームが目に止まった。銀細工が素晴らしい。手に取ってぜんまいを少し巻いてみる。針をはずす。ゆったりとリズムが刻まれる。その時だった。 「お目がお高うございますねえ」という低くて太い男の声が後ろから聞こえた。私が「いつ頃のものでしょうねえ?」と尋ねつつ店主の顔を振りかえった瞬間、二人の間の時間は止まり逆行を始めた。店にあった古時計という古時計もみな針を逆に回したに違いない。30数年前のあの日に向かって。あの瞬間に向かって。 私はマウンドに立っていた。県予選の決勝戦だ。9回裏、走者は1、3塁、アウトカウントはツーアウト、後一つで試合終了だった。スコアは3対2で1点差ながらリードしていた。このバッターを打ち取れば甲子園へ行ける。私はエースとして連戦連投、たしかに疲れてはいた。それもこれで終りだ。あと一人だ、あと一球だと思って渾身の力を込めて投げていた。そして、あの忘れられない最後の一球を投げた。打った。平凡な打球はふらふらと力なく右翼の上空に舞い上がった。ライトはオーライというように右手を高く上げて落下点へ入った。その時、誰もが勝った、試合終了、これで甲子園だと思ったに違いない。しかし無情にもボールは外野手のグラブの土手に当たってライト線を転がっていた。逆転サヨナラ負けだった。二人とも何度も何度も打ち消した思いだしたくない苦い思い出が鮮やかに蘇ってきていた。ライトを守っていたのが、今、目の前にいるSだったのだ。 凍りついた時間の中を手に持った古びたメトロノームだけが正確にリズムを刻んでいた。 すっかり口の中が乾いたような声で「お久し振りです。・・・長いこと・・・ご無沙汰してしまって・・・お元気そうで・・・。」突然のことで明かに動揺しているのだが、落ち付いているかのように、やけにゆっくりとした動作で入り口の鍵を下ろし「閉店」の札をかけてから、奥の部屋のドアを開けて入るように促した。私はと言えば、やはり興奮したのだろうか、上ずった声で店の雰囲気を褒めたり、なぜ骨董品に興味を持ったのかなどと意味もないことをひとしきり喋った後、ようやく落ち付いてから「君も元気そうじゃないか・・・。」と言うのがせいぜいだった。 同級会や野球部のOB会にも一度も出席したことはない。卒業後、家族ごと引っ越してしまって音信不通、それ以来の再会だった。Sはお茶をいれながら、あれから今までのことをぼそぼそと話してくれた。誰に非難された訳ではないけれど、あの土地に住んでいれば、野球の話題になれば、いいや、話題を避けられること自体に耐えられなくて結局は別の土地へ移ったこと。いろいろな職業に就いたけれど、結婚もして子供たちも大きくなり幸せに暮らしていること。子供たちも野球が好きで、休日には少年野球を教えていることなど。 「遠い遠い昔のことなのに・・・すっかり忘れていたはずなのに。」とSは力なく笑った。「思い出させてしまって悪かったな。」と私。メンバーをみんな集めておくから一度帰郷するようにとSに約束させて店を後にした。みんなSのことはずっと気にかけていたのだ。 帰りの列車の中でもSのことばかり考えていた。Sとは心を許せる少ない親友のつもりだった。親にも相談出来ないこともSには話せた。Sはレギュラーメンバーではなかったが、人一倍練習熱心だったし守備は抜群だったから、1点リードした8回裏から守備固めとして監督は起用したのだろう。あんなイージーフライをミスったことを見たことがない。確率的には何千何万回に一回起きるようなものが偶然あの時巡ってきたのだろう。 人は皆、自分の人生を自分で選択していると信じている。一瞬一瞬の選択の積み重ねが、その人の一生を形作るものだと信ずる。Sはあの時確かに自らの意思で捕球しようとしたに違いないのだ。捕球するよう選択したのに失敗した。結果はどうであれ、あの一瞬が人生のターニングポイントになったのだ。何故なのだ?捕球出来ていれば、おそらく今の人生とは全く違った進路があったはずである。運命というより宿命と言うほか無い。おわり 癒しのための短いお話たちより転載」 ご感想をお待ちしております。 「ひとりごと ぶつぶつ」 矢国タテル著、明窓出版、¥1300+税、このブログの過去ログが本になりました。購入を希望される方は最寄の書店に注文されるか、こちらからご注文ください。アマゾンからも注文できます。 ブログ・ランキングに登録しています。お読みになってよかったと思われたら、バナーのクリックをお願い致します。 個別のコメントにはしっかり対応できていませんが、コメントのやりとりを希望される方はミクシーからアクセスしてください。「やくに」で検索すれば見つかると思います。ご相談のある方はホームページ「マイ・スピリチュアル・ワールド」からお入りください。よろしくお願いします。
by 892sun
| 2012-07-29 10:26
|
以前の記事
2016年 12月
2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 11月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 11月 2014年 09月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 home page
ライフログ
その他のジャンル
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||