さよなら、フーちゃん。
あれほどにぎやかだった夏のざわめきが消えて、すっかり静かになった秋の海辺に立って、僕は遠くへ目をやり沖合いの白い波を見つめていた。満足感と寂しさが入り混じった複雑な思いで、この夏のささやかな思い出に浸っていた。
あれは夏休みも近い蒸し暑い日のことだった。一時間目の授業に遅刻した僕は、そのまま学校とは反対の海沿いの道を通って、この町でやっている水族館へ行った。なんとなく乗れない気分の日はいつもそうしていた。 受け付けのおばさんとは顔なじみで、軽く会釈すると「あーあ、今日もサボリなの。真面目に勉強しないと後で後悔するわよ。」と聞き飽きたせりふ。呆れた様に言いながらも、いつも通り裏口から中に入れてくれた。ウィークディの午前中の水族館は閑散としていて客なんていない。僕はウォークマンで音楽を聴きながら見慣れた水槽の前を歩いた。小型の魚の水槽が並んだ通路が終わると、大型の魚が回遊出来る大きな水槽。奥には海辺の小動物の生態が見られる浅い水辺と砂浜。そこを抜けるとイルカの水槽があって、簡単なショーをなどやることになっている。その脇の階段を少し登ると外へ出られる。そこにはかなり大きな自然風な作りのプールがあってシャチが何頭かいる。サイドにプールを見下ろすように客席が設けられていて客がいればショーをやる。 僕はいつも通りコースに沿ってシャチのいるプールの客席の一番隅に腰を下ろすと、意味不明の後ろめたさのようなものを感じながら、それでもボーとしたまま音楽を聴いていた。しばらくして耳に雑音のようなものが入り出したのでチューニングダイヤルを動かした時だった。頭が壊れそうなキーンとした耳鳴りがして僕はイヤホーンコードを慌てて引っ張るようにしてはずした。耳鳴りはそれで治まったが、その後、頭の中で声のようなものが聞えてきた。 「お兄さん、聞える?僕だよ。イルカのフーだよ。聞える?さっき、前を通っていったよね。知ってるでしょ?お兄さん、助けて。僕をここから出して。お兄さん、僕は海に帰りたいんだよ。聞えてる?お兄さんだけが頼りなんだ。狭くて、もう気が狂いそうなんだ。早く助けて、お願いだよ、お兄さん。」こりゃ、何だ?これが、テレパシーってやつか?なんてことだ。イルカのフーちゃんが僕に話しかけてきた。 僕は慌てて立ち上がると、階段を駆け下りてフーちゃんの水槽の前に行った。フーちゃんは僕が分かってくれたと思ったらしく、嬉しそうにぐるぐる上下に回転した。分かったけどさ、フーちゃん、僕になにが出来るのだろう?僕は一応、頷くようにして頭を前にこくんと振った。なんとかしなくちゃ、という思いが強かった。その足でそのまま事務所に行って夏休みのアルバイトに雇ってくれないか頼んでみた。館長はまだ出勤していなかったが、世話係りのおじさんがいて、「いいともさ、捜そうと思っとったとこだで。」と引き受けてくれた。 僕は夏休みを待って水族館で働き始めた。フーとのコミュニケーションは僕が心に思えばどうやら通じるらしかった。考えて水槽の前にいくと、フーは嬉しそうにぐるぐる回転する。もう声は聞えなかった。一応計画は考えた。でもこれじゃあなあ、運を天に任せるというか、でも、高校生の僕に出来るのはこれしかなかった。 時はじりじりと過ぎていった。「おいおい、大丈夫かなあ、もう夏休みが終わっちゃう。」でも、やっとその時がやってきた。天気予報が台風の接近を伝えていた。しかし、僕の計画によれば、その時が、大潮で、満潮の時刻と重ならないとダメなのだった。たしかに明日は大潮だ。もう神様に祈るしかない。「フーちゃん、お前も祈れよ、イルカの神様に。」僕は誰もいないのを確かめてから、用意した大量の牛乳を水槽に流し込み、フーにはぐったり演技させ、大騒ぎをしてまわった。フーは取り敢えず水槽の水を入れ返るまで、シャチのプールに移されることになった。 外のプールの縁は火山岩を高く積んでコンクリートで固められていた。すぐその外が防波堤になってはいるが、このあたりは遠浅で、砂浜が広い。海辺までは普段はゆうに100メートル以上はあるだろう。大潮で満潮になっても50メートルが関の山だ。たとえ台風が来ても、このプールまでは浸水しないように設計されている。波が堤防にまで届く可能性はゼロに等しかった。したがって、僕の計画もゼロに等しかった。でも、僕はこれに賭けるしかなかった。 次の日は風も強くなり早めの閉館となっって、僕も家に帰された。台風は確実にこちらへ向かっていた。満潮は午後8時だ。僕は夕食を早めに食べると、灯りと命綱を持って海に向かった。シャチのプールの外側からビッグウエーブを待つつもりだった。それをフーに伝える。プールの中からでは海は見えない。来るか来ないか分からない大波が来る瞬間をフーに伝える。その時、フーはありったけの力でプールから防波堤を越えて海に向かってジャンプする。「笑わないでよ、まるで、映画みたいだけど。」 僕は命綱を岸壁に結び、雨と風でずぶ濡れになりながらかすかな灯台の灯りが照らす波を見続けていた。神様なんて信じてもいないくせに、今はただ、神様だけが頼りだった。そして、僕の神様はどうだったか分からないが、イルカの神様はフーちゃんの願いを聞いてくれたようだ。見たこともないような大波が僕に向かって進んでくる。「おお、神様、ビッグウエーブだ。フー、来たぞ、来たぞ。今だ。スタートだ。ジャンプだ。飛べ、飛べ、飛べ。」フーがちゃんと飛んだのかどうか、まるで分からなかった。僕も頭から波を浴びて、とても目なんて開けてはいられなかったからだ。命綱にしがみ付き、喉の奥まで潮水を飲みながら、声を限りに叫んでいた。そして一度きりの大波は闇の中を静かに引いていった。 フーちゃん、良かったね。これでやっと、なんとか君との約束を果たしたよ。僕もやるときはやるもんだね。君のためと思って夢中になったことで、何かふっきれたんだ。これから進学のこともあるし、もう少しマジになってみようかな。 「お兄さん、本当にありがとう。もう会えないけど、お兄さんのこと忘れないよ。さようなら。」 沖の白波の一つが砕けて光り、頭の中でまたテレパシーを感じたような気がした。 おしまい 癒しのための短いお話たちより 緑色の風 あふれる光 「ひとりごと ぶつぶつ」 矢国タテル著、明窓出版、¥1300+税、このブログの過去ログが本になりました。購入を希望される方は最寄の書店に注文されるか、こちらからご注文ください。アマゾンからも注文できます。 哲学・思想及びスピリチュアルのジャンルでブログ・ランキングに登録しています。お読みになってよかったと思われたら、バナーのクリックをお願い致します。 個別のコメントにはしっかり対応できていませんが、コメントのやりとりを希望される方はミクシーからアクセスしてください。「やくに」で検索すれば見つかると思います。ご相談のある方はホームページ「マイ・スピリチュアル・ワールド」からお入りください。よろしくお願いします。
by 892sun
| 2013-06-09 12:37
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