第34話 或る患者
私は高血圧症である。30も半ばを過ぎたころから、そう診断されて以来降圧剤を毎日かかさず服用するようになった。別段塩分の多い食品が好きというわけでもないのだが、我が血統は歳を取るにつれ血圧が高くなる。遺伝なのだ。ご存知のように降圧剤は医師の処方箋がないと薬局で買うことが出来ない。その処方箋は医師の診断を受けないと発行されない。したがって、血圧が高いこと以外自覚症状もないのだが、4週間に一度は問診を受けるため、形だけでも病院を訪れざるを得ないのである。最初は億劫であったが、今ではこれも一つの健康管理と思って諦めている。
人付き合いは苦手なほうだが、待合室で退屈な時間をつぶしながら人々をじっと観察していると、4週間ごととはいえ、同じ病院に20年近くも通っているのだから、患者の顔を覚えてしまうこともあるし、同病合い憐れむで、つかの間の会話を楽しむこともある。名刺の交換から賀状のやりとりに発展するようになることもある。N氏もその一人であった。そのN氏がこのあいだこんな話をしてくれた。 「あなたも通院が長いようだからご存知だと思いますが、この新館が出来る前の格式の高かった旧館には大きなホールがありましたでしょう。医学生やら患者やら誰でも出入り自由だった図書室のような休憩室のようなホールですよ。一度はお入りになったことがあったんじゃありませんか?あのホールの奥の窓際にはいつもロッキングチェアーが置いてありました。ご存知なかった?ああ、そうですか。有名な話なんでご存知かと思っていましたが、あの椅子はここの大学病院の創設者の梅里幸三郎翁の愛用の椅子でしてね。生前の先生は晩年、公用から引退なさった後は、午前中はいつもあの椅子にかけてモーニングコーヒーを飲みながら新聞を読まれていたそうです。そこまではいいんですがね。」 そこでN氏は一呼吸おくと、声を抑えるような話方に変えた。 「こんな話、信じていただけるかどうか、実は、梅里翁はお亡くなりになった後も、朝になると必ずあのロッキングチェアーにすわって新聞を読んでおられたということです。多くの人たちが目撃しているのですから間違いありません。かくいう私も噂を聞いて確認しに行ってきました。生前の先生にお会いしたことはありませんでしたが、新聞、雑誌などの写真でお見かけした梅里先生が新聞を読んでおられるのをはっきりと見ました。窓越しに陽光が燦燦としている真昼間ですよ。幽霊というのは暗闇に出るというのは嘘だということをその時知りました。しかし、いずれにしても梅里翁はよほど自分の創立した大学と病院に愛着があったのでしょうねえ。新館に立て変えるという話が出てきたのは、そんな噂が広まると困ると関係者が思ったせいではないでしょうか。ばたばたと建て替え工事が始まりましたものねえ。」と言ってN氏はため息をついた。 12月に入ってすぐ、そのN氏から喪中につき年末年始の賀状を辞退しますという書状が届いた。よく見てみると、それはN氏本人からではなくN氏の奥方からのもので、亡くなったのがN氏だったのだ。どうやら今年の夏が越せなかったらしい。私に一月ばかり前に話をしてくれたのは、いったい誰だったのだろうか。彼が言ったように、どうやら幽霊はときとして幽霊らしからぬ姿を見せるようである。 第34話、「或る患者」 終 感想をお待ちしております。 秋色に染まる恋人たち 7
by 892sun
| 2007-11-26 13:10
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