第35話 終着駅
A氏の生活は、毎日毎日残業続きで、家にはまるで寝るためにだけ帰るような繰り返しだった。今夜も終電ぎりぎりまで仕事が終わらなかった。なんとか形だけつけて電車に飛び乗ったA氏は運良く空いた席に体を沈み込ませると、疲れが一度に襲ってきてすぐに眠ってしまった。
僅かな時間ではあったが、いつもの習慣で、降車駅が近くなれば反射的に目が醒める。その日も、そろそろ降りるころだと気がついて目を開けると、いつもと何か様子が違っていた。車内には自分一人で他には誰も乗客がいなくなっていたのだ。乗り越してしまったのだ、と思った。A氏は慌てて飛び起きると他の車両へ移ってみた。しかし、他の車両にも誰も乗っていなかった。電車は走り続けていた。そうだ、最後部の車両には車掌がいるはずだ、と走る電車の中を息せき切って最後部に向かって走っていった。 車掌はA氏に向かって歩いてくるところだった。他に何人かの乗客も一緒だった。よかった、私一人が乗り越したのではなかった、と責任を一人で負わなくて済むことが頭の隅をよぎった。きっとこの電車は車庫へでも入るのだろう。そこからどうして帰宅するか相談するつもりだった。A氏はまずすみませんと頭を下げて謝ってから、つい、うっかり寝過ごしてしまって、などと言い訳をしながらどうしたらいいものか尋ねたのだった。車掌は何も応えず、ただ黙ったまま窓の外を指差した。 A氏は窓の外を見た。今まで慌てていて気付かなかったが、なんということだろうか、確か自分の乗った電車は夜だったのに、窓の外には昼間の景色が飛び去っていく。A氏は一瞬、朝まで眠っていたのかと思ったほどだった。よくよく見てみると、走馬灯のように流れていく景色に見えたものは車窓の風景ではなかった。それは、まぎれもなくA氏の過去が映像となって映し出されている。他の乗客たちも、それぞれ自分の窓の映像を食い入るように見つめていた。 たいしたことは出来なかったが、それでも自分なりに一生懸命生きてきたつもりだった。夢を抱いて上京し夢中で働いた。好きな人も出来て恋もした。結婚した。子供も出来た。ローンだけれど小さな家も建てた。しかし、いいことばかりではない。リストラされて転職を余儀なくされたこともある。ローンの支払いに追われて苦しんでもいる。家族のことを思えば不本意な仕事もしなくてはならない。嫌な上司におべっかを使い、生き延びるには同僚を蹴落とすこともする。良心の呵責に苛まれ自殺の方法も真剣に考えた。 背後から車掌の声が聞こえてきた。「皆様、長らくご乗車ありがとうございました。この電車は、次元移行車両となっています。このたびは、三次元から四次元へ移行いたします。まもなく終着駅に到着いたします。移行を希望されない方は急いで降車下さいますようお願いいたします。」 車掌の言葉で、事態が把握できた。A氏は自分が何らかの事故に巻き込まれて死に向かっていることを理解した。このまま乗って終着駅まで行けば死ぬのだ。これで毎日毎日の苦しい生活からもやっと解放されると思うと、思わずほっとする気持ちがある一方、二人の娘たちともう会えなくなるとことに気がついて、A氏は車掌にドアを開けてくれるよう頼んだ。まだ死にたくない。苦しくても生きていたい。もう一度家族と暮らしたい。 翌日の新聞はトップニュースで昨夜の鉄道事故を報じていた。無人の踏み切りでの衝突脱線事故で数名の死者と多数の重軽傷者名が記載されていたが、死者のリストにA氏の名前はなかった。第35話、「終着駅」 終 ご感想をお待ちしています。 秋色に染まる恋人たち 8
by 892sun
| 2007-11-27 11:35
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