第21話 ラワンの臭い
かつて日本の商社マンはエコノミックアニマルなどと呼ばれたものだ。ビジネスの臭いを嗅ぎ付ければ、たとえ地の果てといえども姿を見せる。べつに好きでそうしているのではない、社命とあらば忠実な宮使えとして致し方ないのである。かくいう私もボルネオ島西部サラワク州という熱帯樹林地にラワン材の調査買い付けに行ったことがある。すでに州政府とは話はついているのだが、木材の伐採や運び出しには地元の協力が不可欠だったのである。
ジープに乗ったりアナコンダのように曲がりくねった大河をロングボートに乗り継いだりしながら三日がかりでガリム族の酋長に会いに行った。山ほどの贈り物はすでに別便で届いており、通訳が紹介するまでもなく酋長は満面の笑顔で出迎えてくれた。 ほどなく歓迎のパーティーが始まった。鳥の羽根を体中に付けたり、ボディーペイントした男がドラムに合わせて踊る。野豚や鹿の肉、タロイモや見たこともない果物を女たちが運んでくる。そして濁り酒がふるまわれる。酋長の隣に陣取ってはいたが、ビジネスの話は一切しなかった。私は彼らと友好関係を築き、これからここで切り出される材木が無事に日本まで届けばそれでいいのだ。宴がたけなわになるにつれ私も踊りに加わるように促される。見様見真似で踊る。ドラムがやけに腹にひびいて酒がまわる。単調なリズムと踊りがいつ果てるともなく続く。深い闇がジャングルを被い呪文に似た熱気がほと走る。 どのくらいの時間が経ったのか、私は急に気持ちが悪くなり、吐き気を催して群れから離れた。ちょろちょろと水の流れる小川のへりで私は嘔吐した。何度も何度も吐いた。もう何も吐くものがないのに吐いた。苦しかった。その時肩を叩く者がいた。さきほどから酋長の後に見え隠れしている小柄な年寄りの呪術師が立っていた。彼は懐から鏡を取り出し、私に「見るように」言っているようだった。私は訝りながらも彼の鏡を覗きこんだ。 黒いものが見えた。鳥のようだった。黒い鳥が苦しそうにうめいていた。なぜ鳥なのか、もっとはっきり見ようと彼の手から鏡を奪おうとして悲鳴をあげた。悲鳴は私の声には思えなかった。人間の声ではなかった。私の手は黒い羽根だった。私は私を見た。私はカラスのような黒い鳥だった。呪術師が勝ち誇ったような奇声を発し追いかけてきた。私はカラスのように鳴きながら逃げた。腕のつもりで羽根を上下に動かして地上を蹴った。高く飛び立つことは出来なかったが、それでも走るよりは速かった。そしてただ夢中で森の中へ飛び込んでいった。 夜の森は暗闇ではなかった。木々も草も動物も虫たちでさえも光り輝いていた。生きとし生けるものは皆光を放っていた。そして私が森のなかへ入ったことを知り、私が何者であるかを知り、ここへ何をしにきたか知るべく意識を全部こちらに向けてきた。それが憎悪の念に変わっていくのに時間はかからなかった。私はそこに「いる」ことだけでも耐えられないほど恥ずかしかった。そのまま意識が遠ざかっていった。 上流から流されてきたボートがバラム川の河口の町で発見されて、ほとんで衰弱死寸前で私は助け出された。後で分かったことだが、約2週間行方不明だったそうだ。もちろん、その間の記憶は全くない。いままでお話したことも、誰も信じてはくれないし思い出したくはない。ただ、木工具売り場などでラワン材のすえたような臭いを嗅ぐとどうしても思い出してしまう嫌な記憶の一つだ。 第21話 終。
by 892sun
| 2007-11-12 14:45
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